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神戸地方裁判所 昭和57年(ワ)103号 判決

原告

岡本弘

原告訴訟代理人弁護士

石丸鉄太郎

被告

中井清

被告訴訟代理人弁護士

谷正道

主文

一  被告は原告に対し金三〇〇万円及びこれに対する昭和五七年二月七日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は五分し、その二を原告の、その余は被告の各負担とする。

四  この判決は原告において金一〇〇万円の担保を供したときは主文第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  原告は、「(1)被告は原告に対し金五〇〇万円及び右金員に対する昭和五七年二月七日より支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。(2)訴訟費用は被告の負担とする。」との判決及び仮執行宣言を求め、その請求の原因として次のとおり述べた。

一  本件不法行為に至る経緯について

1(一)  原告は、昭和四九年当時日新信用金庫に勤務し、同金庫六甲支店長をしていたものであり、被告は医師として神戸市灘区下河原通三丁目一番一四号中井ビル内に医院を開設し医療に従事していた。

被告は、亡父中井清蔵が同信用金庫の前身である神港信用金庫の設立者の一人であつたことから、同金庫と銀行取引があり、昭和四二年頃原告と知り合うに至つた。

(二)  昭和四八年中頃、被告およびその家族所有の小束山の山林が清水建設株式会社に売却され、その頃から同年末頃にかけて分割して支払われたその代金総額約三〇億円は、日新信用金庫に預け入れられた。被告は、右売買の手付金を入手して以来それを資金として方々に山林や宅地を買い求めたので、日新信用金庫としても多額の入出金を一係員に委すわけにもいかず、支店長たる原告がほとんど毎日のように被告方を訪ねるようになり、そのうち被告の資産運用について相談を受けたり、不動産の価格につき鑑定意見を求められたりするようになつた。

2(一)  小束山の山林のうちには被告が長男中井明彦名義で買受けていたものがあり、売却代金約三億円の内既に資産の買換えに用いた分を除いて約九〇〇〇万円が残つていたので、被告はこれを使用して適当な企業を買収し、中井明彦に経営させたいと考え、その企業の選択等について原告に相談した。その際、中井明彦名義の企業買収に用いる金額の限度を約一億円としていた。

(二)  昭和四八年末頃、被告は原告に、灘タクシーを買いたいのだがと相談を持ちかけた。原告は、灘タクシーと日新信用金庫とは以前より取引もあり、ある程度経営内容も知つていたし灘タクシーは神戸市内のタクシー業界では一、二を争う優良企業と評されていたので、その旨説明したところ、被告は原告に対し、灘タクシーを買い受ける方向で調査するよう依頼した。

原告は、灘タクシーの取引状況は既に判明していたので不動産に重点をおいて調査した結果、被告に、灘タクシーは良い買物であると報告した。

被告は、原告より右報告を受け灘タクシーを買い取る方向でさらに交渉を進めるよう原告に依頼した。

(三)  昭和四九年二月終り頃、灘タクシー代表取締役糸井篤次より同四九年一月末日現在の灘タクシーの試算表と資産負債内訳表が原告に交付され、被告はこれを見たうえで、一億円の制約があるが、上手に買取るよう努力してほしいとの希望をのべて、原告に灘タクシーの買取の事務を委任した。

3(一)  灘タクシー売買の交渉は、売主側の灘タクシーのオーナー中川浅二の代理人水木佳朗及び中川浅二の息子中川明と買主側の原告及び被告の有する企業の税務顧問をしている税理士木村春夫との間において、被告の診療所や木村春夫の事務所で数回に亘つて行なわれた。原告は逐一被告に交渉の経緯を報告し、被告は原告のこの報告を了解した。

(二)  取引価格決定のために、最終的に詰められた灘タクシーの全資産の評価額は金一億九三三六万四三三〇円であつた。右金額は、灘タクシーの資産の評価替をして算出されたものである。即ち、当時灘タクシーには帳簿上一九四五万五三三〇円の利益剰余金が社内に留保されていた。土地の評価増が二億一一三六万六〇〇〇円となる(本社の土地一六三坪が坪単価七〇万円、車庫の土地一九〇坪が坪単価三五万円、吉田町の貸地が坪単価一〇万円、右三物件の帳簿価格金一三二三万四〇〇〇円)。貸倒等不良資産の再評価による評価減が三七四五万七〇〇〇円となり、その結果が一億九三三六万四三三〇円となる。

右評価替の交渉は主として原告がなしたものであるが、原告は取引実績からみて、本社の土地は坪単価一〇〇万円であるが、金融機関なみにその七掛、車庫の土地は本通りに面していないからその半分と評価すべしと主張し、その主張が通つたものであり、売主側の代理人である水木らには相当不満のあつた評価であつた。

(三)  そこで、被告が灘タクシーの買取金額として一億円程度しか使えないということであつたので、これに近づけるべく、灘タクシーの経営にとつての不要資産を会社財産から除外して中川浅二ら株主に譲渡することとした。

除外した資産は以下の四件(以下「本件四資産」という)である。

① 宝交通株式八〇〇〇株 (帳簿価格一〇八〇万円)

② 恵タクシー株式二四〇〇株 (帳簿価格 一八〇万円)

③ ゴルフクラブ負担金 (帳簿価格  三七万円)

④ 吉田町貸地四四〇坪金四四〇〇万円 (帳簿価格  八〇万円)

その結果、売買の対象となるその余の資産の再評価額は、一億三六三九万四三三〇円となつた。

(四)  かくして、売買の対象となる資産の範囲は前記四件の資産を除外した全資産と確定したが、その価格について、買主側は一億円を主張し、売主側は、先になした不動産の評価替が売主側に不利であつたこともあり、一億三〇〇〇万円はほしいと固執し交渉は難行した。しかし、売主側が金銭的にひつぱくしていることもあり、昭和四九年三月中頃原告と水木佳朗の間において、右四つの除外資産を売主側に残して、除外後の全資産を現金一億円で売却するという了解が成立した。原告はその旨被告に報告した。

(五)  右売買代金は、昭和四九年三月二六日に手付金三〇〇〇万円、同年四月一七日に金八三七七万円の二回に支払われた。右合計金額は一億一三七七万円であるが対税上右金額になつたもので実質上一億円であることにはかわりがない。右支払はいづれも被告の診療所において、被告、原告、糸井篤次、水木佳朗、中川明がいるところで、被告が自ら小切手を振出し交付してなされたものである。

(六)  さらに、中川浅二は、当時現金が必要であつたので、前記除外された資産のうち吉田町の貸地を坪単価一〇万円で買取つてくれるよう直接被告に申し入れたが、被告は原告の進言でその買取の申し出に応じなかつた。

4(一)  原告は、被告から日新信用金庫を退職してその財産管理にあたつてほしい旨繰返し勧誘されていたこともあつて昭和四九年五月、二〇年余精勤していた日新信用金庫を退職して灘タクシーの専務取締役となり、灘タクシーを経営するかたわら被告の財産管理を行つた。

(二)  ところが被告は、昭和五〇年一一月頃、当時灘タクシーの経営に参加していた被告の長男の中井明彦との関係が険悪となりこれに関連して、原告に対しても悪感情をいだくようになり、昭和五一年六月末頃、合理的理由もないのに原告の右専務取締役の地位を解任し、かつ、原告に明日より出社する必要がないと申し渡したので、原告は同月をもつて灘タクシーを退職せざるをえなかつた。

二  被告の本件不法行為について

1(一)  被告は、灘タクシーの買取にあたつて功績のあつた原告を一方的に退職に追いやつたばかりか、昭和五一年一二月二二日、原告の灘タクシーの買取交渉には背任の事実があり、これにより被告は五六九七万円の損害をうけたと主張し、五六九七万円の支払を請求して、神戸地方裁判所に訴えを提起した。

右訴訟は、原告が前記四資産の除外を被告に隠して金一億円で売買を成立履行させたため、右四資産の評価額合計五六九七万円の損害をうけたということであつたが、訴え提起当時、被告は、灘タクシーの買取において前記四資産が除外されていることを灘タクシー買取代金支払時点において知つており、原告に背任の事実は全くなく、何ら請求しえないにもかかわらず、あえて右訴えを提起したもので、これが不当な訴えの提起であり、不法行為を構成するものであることは明らかである。

右訴えは、昭和五六年八月一八日、中井清(本訴被告)の全面敗訴の判決の言渡しがなされた。右判決の理由中においても、中井清は右四資産の除外は契約当時知つていたと判断している。

(二)  原告は、被告の右不当訴訟の提起によりやむなく弁護士田島實にその訴訟の追行を委任し、その手数料報酬の支払を約束した。

右訴訟は、原告勝訴となつたので、弁護士田島實に対する手数料・報酬額は金三〇〇万円を下るものではなく、これは被告の不当提訴という不法行為により発生した損害である。

2(一)  また、被告は日新信用金庫に二〇年余精勤し、若くして同金庫の重要支店である六甲支店の支店長をしていた原告を、自己の財産管理にあたらせるために、原告に同金庫を退職させたのであるから、合理的理由のない限り原告の地位を保証しなければならないのに、昭和五一年六月頃、合理的な理由もないのに一方的に原告を解職し、さらに昭和五二年春頃、灘タクシーの従業員全員を集めて原告が横領した旨説明し、同年に稲泉実豊らに対し「岡本に六〇〇〇万円もの金をとられたので訴えている」と述べ、元信用金庫支店長としての名誉を著しく毀損した。

(二)  原告は、被告の右訴えの提起に加えて名誉毀損行為などにより、銀行員としての信用を失い、人を避けるような性格となり、心労の余り胃潰瘍を患い一月入院するほどであり、非常な精神的苦痛をうけた。この精神的苦痛は金銭に置き換えることは不可能であるが、あえて置き換えるならば金二〇〇万円が相当である。

三  よつて、原告は被告に対し右不法行為による損害賠償請求権に基づいて前記金五〇〇万円及びこれに対するその発生後の昭和五七年二月七日(訴状送達の翌日)から支払済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第二  被告は、「(1)原告の請求を棄却する。(2)訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、原告主張の請求の原因事実に対する答弁として次のとおり述べた。

一  答弁

1  請求原因一項について

1の(一)は認める。同(二)のうち、原告が被告から被告の資産運用について相談を受けたり、不動産の価格につき鑑定意見を求められるようになつたことは否認し、その余は認める。

2の(一)のうち、被告が長男名義で買い受けていた小束山の山林の売買代金の残金が約九〇〇〇万円であつたことは認め、その余は否認する。同(二)のうち、被告が最終的に灘タクシーの買い取りの交渉にあたらせたことは認めるが、その余は否認する。(特に、被告から右会社の買い取りを相談したことは強く否認する。)同(三)は否認する。被告が原告から交付を受けたのは、右会社の資産負債内訳表のみであること、及び被告は原告に右会社を一億円で買取る様指示したのである。

3の(一)のうち、原告が被告に買取交渉の経緯を逐一報告し、被告がそれを了解したことは、否認し、その余は認める。同(二)及び(三)はいずれも不知、同(四)のうち、原告が被告に対し、灘タクシーの資産から本件資産四件を除外して残余資産を一億円で買受けることを報告したことは強く否認する。(二)〜(四)記載の事実は、被告に何ら報告なしに行われたものであり、被告は本件売買代金支払時点で本件資産四件が除外されていることは全く知らなかつたのである。同(五)のうち、売買代金額が一億一三七七万円となつたのは、対税上のためであり、実質上は一億円であることは否認し、その余は認める。同(六)は否認する。

4の(一)のうち、昭和四九年五月、原告が日新信用金庫を退職して、灘タクシーの専務取締役になつたことは認め、その余は争う。同(二)のうち、昭和五一年六月末頃、被告が原告の職を解いたことは認め、その余は否認する。被告は灘タクシー買い取り交渉における原告の背信行為を知り、原告の職を解いたのである。

2  請求原因二項について

同1項のうち、昭和五一年一二月二二日、神戸地方裁判所に被告が原告に対するその主張の損害賠償請求の訴えの提起したこと、昭和五六年八月一八日、判決言渡があつたこと及び判決理由中に原告主張の判断が示されていること、弁護士田島實が原告の代理人として右訴訟を追行したことは認め、その余及び同2は否認する。

3  請求原因三項は争う。

二  被告の主張

1  原告主張の本件不法行為の経緯について

(一) 灘タクシーの買取りは、昭和四八年末頃、息子の不始末のため、その資産売却の必要に迫られた中川浅二から、その甥の水木佳朗を介し、原告に対し、神戸市六甲に所在する中川浅二の自宅及び敷地を被告に買い受けてもらうように依頼があつた際に、これに付随して生じたものである。

(二) 被告は、灘タクシーの株式全部の買取り交渉を原告に指示し、原告が持参した同社の「資産負債内訳表」を検討した結果、被告の手持ち資金である小束山の山林売却代金のうち、金一億円を上回る資産内容であることのめどがついたため、金一億円でもつて、右「資産負債内訳表」記載の内容を有する灘タクシーの全株式を取得するべく交渉するように原告に指示したのである。

(三) 本件株式売買の交渉課程において、当初売主である中川浅二側(その交渉の窓口となつたのは前記水木佳朗)は、売買代金を金一億五〇〇〇万円、次いで金一億三〇〇〇万円にしてくれと申し出て来た。これに対し、被告は飽く迄も金一億円で買い取る旨を原告を介して、中川浅二側に伝えさせたところ、相手から返事はなく暫らく交渉は中断したが、その後被告は原告から相手が金一億円で売却することを受諾した旨の連絡を受けた。此の時も、原告は、金額一億円で交渉が成立した旨を報告したのみであり、後日問題となつた宝交通株式会社の株式等四件の資産の事については、全く触れなかつたし、其の後も右四件の資産については、言及するところがなかつたため、被告は前記「資産負債内訳表」の内容の会社の株式全部を金一億円で買い受けるものと信じて疑わなかつたのである。

(四) しかるに原告は、被告の信頼を裏切り、売買交渉の相手方である中川浅二側と結託し、請求原因一項の3(二)乃至(四)記載の諸事実を被告に報告せず、被告に無断で前記四件の資産を売買対象から除外したばかりか、税務処理上必要であるとの口実を設けて、更に支出の必要のない金一三七七万円を現実に被告から支出せしめ、その上、身内の不始末から従業員も見捨てて、会社を手放した経営者中川浅二に対し、二二〇〇万円もの退職金を支払うことに無条件で同意しているのである。

2  訴訟提起による不法行為の主張について

(一) 原告のかかる行為は、被告に対する背信行為であり、被告は、原告が前記四件の資産を除外して売買を成立させたため、その評価額合計五六九七万円相当の損害を蒙つたものであるからその損害賠償を求めて請求原因二項の1(一)記載の訴訟を提起したものである。右訴え提起は、何ら不当不法なものではない。

仮に右四件の資産を除いて右売買取引が行われたとしても、原告は故意もしくは重大な過失により被告をして支出の必要のない金一三七七万円を支出させ同額の損害を与えているので、原告は被告に対し右金一三七七万円の損害を賠償する責任がある。

(二) そして被告は、本件売買代金支払時点で四資産が除外されていることを知らなかつたのであるから、前記訴えを提起したことについて故意はなく何ら不法行為を構成しない。

(三) 仮に、被告が四資産除外の事実を知つていたとしても、買収交渉成立後原告が被告に金一三七七万円を追加支出させたことについて、何ら被告の納得できる説明もなされなかつたため、結局被告は、右買収自体及び四資産除外について、原告は被告の信任を裏切つたものとして訴提起に及んだものであり、これは、買収交渉に直接関与した原告が当然負担すべき説明義務を履行しなかつたことにその原因があり、被告には過失も存在しないので、被告の右訴えの提起は不法行為を構成するものではない。

3  名誉毀損による不法行為の主張について

(一) 右主張のうち、背任を理由とする訴えの提起に対する反論は前記のとおりである。

(二) 被告は昭和五二年春頃灘タクシーの従業員全員を集めて原告が横領した旨説明したとの原告の主張については、右事実が存在しないのみならず、また、当該事実に関する原告の主張は、集会の日時、場所も特定しておらず、主張自体が失当である。

(三) また、被告は昭和五二年稲泉実豊らに対し「岡本に六〇〇〇万円かの金をとられたので訴えている」と述べたとの原告の主張についても、前同様、右主張に係る事実につき、日時場所が特定されておらず主張自体失当である。仮に、被告が稲泉実豊に対し「岡本に六〇〇〇万円横領された、告訴している」と述べたとしても、其の場に居たのは同人のみであるから名誉毀損の要件の一つである公然性を欠き、名誉毀損の不法行為は成立しない。

4  以上のとおり、被告には何ら原告主張の不法行為はないので、原告の請求は失当である。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一請求原因一項1の(一)の事実、同1の(二)のうち原告が被告から被告の資産運用につき相談を受けたり不動産価格の鑑定意見を求められるようになつたことを除くその余の事実、同2の(一)のうち被告が長男名義で買い受けた小束山の山林の売買代金残高が約九〇〇〇万円であつたこと、同2の(二)のうち被告が最終的に灘タクシーの買い取りの交渉にあたらせたこと、同3の(一)のうち原告が被告に買取交渉の経緯を逐一報告し被告がこれを了解したことを除くその余の事実、同3の(五)のうち売買代金額が一億一三七七万円となつたのは対税上のためであり実質上は一億円であることを除くその余の事実、同4の(一)のうち原告は昭和四九年五月日新信用金庫を退社して灘タクシーの専務取締役になつたこと、同4の(二)のうち被告は昭和五一年六月末頃原告の職を解いたこと、請求原因二項のうち、被告は昭和五一年一二月二二日神戸地方裁判所に原告を相手方としてその主張の損害賠償請求訴訟を提起したこと、同訴訟は昭和五六年八月一八日判決言渡があつたこと、同判決理由中には原告主張の判断が示されたこと、弁護士田島實が原告の代理人として同訴訟を追行したことについては当事者間に争いがない。

二本件不法行為の成立について

1  原告主張の被告の不当訴訟につき

(一)  被告が原告主張の損害賠償訴訟を提起するに至つた経緯について検討するに、当事者間に争いのない前記事実に加えて、〈証拠〉を総合すると次の事実が認定でき、同認定に反する〈証拠〉中の被告の供述部分、同認定に反する原告及び被告各本人尋問の結果はにわかに措信できず、他に同認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 昭和四九年当時、原告は日新信用金庫の六甲支店長で被告は日新信用金庫の六甲支店の重要取引先であり、被告は常日頃より自己の資産の運用を原告に相談し、原告は支店長の重要顧客に対するサービスとして相談に応じていたところ、昭和四九年二月末頃、被告は灘タクシーの買収交渉を、灘タクシーの作成した同年一月末日現在の資産表と資産負債内訳表(甲第一六号証)を見たうえで、一億円の制約があるが上手に買い取るように努力してほしいとの希望を述べて、原告に委任し、原告は、支店長の重要顧客に対するサービスとして受任し精力的に交渉し、同買収交渉を成立させた。

(2) 原告は、未だ被告の使用人ではなく単なる被告の取引先の信用金庫の支店長にすぎず、また取引規模も大きかつたので、原告は、前記買収交渉を、その都度被告に経過報告し、被告の意見を求めながら進めていつた。

原告は当初、被告に対し、被告の顧問税理士である木村春夫と協議のうえ資産の再評価をし灘タクシーの買収には二億円程必要であると説明したところ、被告は、会社経営に必要でない資産を除外し、予算の限度内の一億円程度で買収するよう指示し、原告は被告の指示に基づき前記木村春夫や灘タクシーの役員の糸井篤次らと協議のうえ、灘タクシーの経営に必要でない本件四件の資産を買収対象から外すとし買収価格は一億三七〇〇万円になるとし、その旨被告に報告した。被告は、未だ一億円の価格を上廻るとして、原告に一億三七〇〇万円での買収に対する応諾の回答を留保するよう指示していたところ、灘タクシーのオーナーである中川浅二の決断により、昭和四九年三月中頃、灘タクシーより本件四件の資産を除外し一億円で売買するむね合意が成立し、その旨被告に報告し、被告もこれを了承した。

(3) ところがその後、本件四資産の除外に伴い課税問題が生じ、原告は前記木村春夫らと協議のうえ、売買価格を一三七七万円増額させその一三七七万円をそのまま現金資産として灘タクシーに留保し実質一億円の売買とすることとし、その旨被告に報告し、被告は原告の右報告を了解し合計一億一三七七万円を支出して取引は終了した。

(4) ところが、昭和五〇年一一月頃、原告が被告に相談しないで勝手に仮眠室を作つたり、二四台のタクシーの買い換えをしたことを叱責し、原告に不信の念を抱いてさらに灘タクシー売買の際の四つの資産を除外したことや、一三七七万円の追加支払についての説明を求めたが、原告が納得のいく説明をしなかつたり、本件除外資産の中川浅二への無償譲渡や退職金の二二〇〇万円の支払については触れず、また説明の当初にこれに関する株主総会の議事録についても言及しなかつたことから、被告は原告に対し売主側の中川浅二と結託し原告に秘して本件四資産を除外し被告に損害を蒙らせたとの疑惑を募らせ、原告や顧問税理士木村春夫、灘タクシー代表取締役糸井篤次の説明にも納得せずに、昭和五一年六月頃には原告に背任行為ありとして同人を解雇するに至つた。

(5) 原告は、昭和五一年六月末頃灘タクシーを退職し、同年八月頃、中川浅二一族が全額出資している三和タクシー株式会社に入社し、その専務取締役となつた。

そこで、被告は原告に対する右疑惑を一層強めるに至つた。

(6) 被告は、本件取引終了後二年八月経過した昭和五一年一二月二二日、原告が被告に本件四資産の除外を隠して一億円で取引を成立させ、被告にその除外した四資産の評価合計五六九七万円の損害を蒙らせたとして原告に対し五六九七万円の支払いを求める訴えを神戸地方裁判所に提起したが、その訴訟は原告(前記訴訟の被告)の勝訴で終了した。

(二)  次に、被告の右訴訟がいわゆる不当訴訟として不法行為を構成するかについて検討するに、前記関係各証拠を総合すると次の事実が認定でき、同認定に反する〈証拠〉はにわかに措信できず、他に同認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 原告は、買収交渉開始当時、除外した本件四資産も含まれた資産負債内訳表を被告に示しており、その内いずれかの資産を除外して売買すれば原告が秘匿しても早晩被告に知れることは明白であつた。とりわけ、全体の資産の評価額の三割弱、合計五七〇〇万円を占める本件四資産を売買の対象から外すという大きな問題を原告が被告に報告して了解を取り付けないまま、また被告に知れないまま売買を終了させてしまうということは不可能であつた。

(2) 原告は、買収交渉当時、日新信用金庫の支店長であり、被告からの買収交渉の依頼に応じたのも、支店の重要顧客に対するサービスとしてしたにすぎなかつた。そして、原告は原告なりの方法で被告の信頼にこたえるべくその利益のために十分な誠意をつくして買収交渉に当り同買収を成立させ、被告も原告の努力と誠意を評価して買収した灘タクシーの専務取締役に迎え入れた。

(3) 本件買収交渉は被告側(買い受け側)として原告一人が関与したのではなく、被告の従前からの税務顧問であつた木村春夫も資産評価などで関与しており、同人と共謀でもしないかぎり、被告の信頼に背いて五七〇〇万円もの本件資産を除外出来るはずはないが、原告は木村春夫と共謀したという事実もうかがえない。

(4) 原告は、被告に対し、灘タクシーを一億円で買収する交渉が成立した後に、さらに一三七七万円の支出を求め、被告はこれに応じたが、被告はその際その超過出費につき詳細な説明を求め了解のうえ出資しているはずである。

(5) 昭和四九年三月三一日の確定申告より灘タクシーの経理及び納税には被告の従前からの顧問税理士である木村春夫が関与しており、昭和五〇年の決算書は同人が作成し被告に示しているが、昭和五〇年の決算書には本件四件の資産の記載はないのに、被告はその時点で苦情を言わなかつた。

(6) また、被告が保管していた中井明彦と中井直子の各実印を捺印してある灘タクシーの取締役会の議事録が存在するが、同議事録には本件四資産を帳簿価格で中川の一族に売却する旨の記載があり、被告は同議事録を理解して中井明彦と中井直子の各実印を捺印している。

そして右事実によると、被告は原告の報告により一億円という売買代金は本件四資産を除外した後の全資産に対するものであることを十分に承知していたものと推認される。

他方、被告本人尋問の結果によると、「原告は灘タクシーの買収当時開業医師として医業に専念しその買収交渉を原告に一任していたが、原告からは本件四資産を除外して買収するとの報告は一切受けていなかつた。むしろ原告は被告の信頼に背き売主側の中川浅二と結託して本件四資産を除外することを被告に秘したまま灘タクシーを不当に高価に買収するという背任行為に及んだ。」旨述べており、また前記関係各証拠によつても、原告は被告より灘タクシーの全資産を一億円内で買い受けるという取引を依頼されながらも合計約五六九七万円相当の本件四資産を除外して一億円で買い受け、その後に被告を納得させるだけの十分な説明をすることもなく被告にさらに一三七七万円の追加金を支払わせた(この一三七七万円は被告が買収した灘タクシーにそのまま入金されたので買収価格が実質的にみて一億円であることには変りない)こと、原告はその経歴と交渉の立場・任務(被告よりの受任内容)などからみても右買収交渉において被告に逐一報告しその承諾の下に右買収交渉を進め、その合意成立時には売買契約内容を明確にするための売買契約書その他の文書等を作成すべきでありまたそれができたのにこれらの文書を一切作成していなかつたこと、原告は売主側の中川浅二に除外された本件四資産を無償譲渡したり同人らに退職金二二〇〇万円を支給することに無条件で同意していること、原告と被告との間が気まずくなつた昭和五〇年一一月頃から被告は前述のように原告の背信的行為の疑いを募らせたこと、さらに、原告は被告から背信的行為を理由に灘タクシーを解雇されるや、前述の如く、その直後に中川浅二傘下の企業に迎えられたことなど疑惑の眼で外形的にこれをみる限りは原告の背信行為を疑わせる一連の言動があるので、原告は本件買収交渉過程において売主側の利益を図り依頼者の被告の信頼に背き被告に秘して本件四資産をわざと除外して買収したとの不信の疑念を払拭できないところである。しかし右事実及び疑念も、本件買収当時被告は本件四資産が除外されていることを全く知らずに灘タクシーを買収したことまでを的確に裏付けるに足りる事情とはいえず、右事実とても前記証拠により推認される被告が本件四資産が除外されていることを了知して灘タクシーを一億円で買収したとの事実を否定又は左右するものとまではいえない。また、前記被告本人尋問の結果もにわかに措信できない。

(三)  以上のとおり、被告は灘タクシーの買収に際し本件四資産が除外されていることを十分に知つてその余の資産を一億円で買収しその代金の支払いも済せたものであり、原告には被告主張の背任行為がなかつたのであるが、その後に被告は原告に依頼して灘タクシーの全資産を一億円(一億一三七七万円のところ後に内一三七七万円が買収された灘タクシーに入金された)で買収したのに、原告は背信的にも本件四資産を除外(被告に秘して事前又は事後に除外)し、被告に合計五六九七万円(被告主張の一三七七万円は灘タクシーに入金されたとして除外)の損害を蒙らせたとして、昭和五二年一二月二二日神戸地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起したところ、被告は本件四資産が除外されていたことを十分に知つて灘タクシーを買収したので、原告には被告主張の背任行為はないとして敗訴した。ところで、前述のとおり、被告は右買収当時原告の報告を受け本件四資産を除外して買収することを承知のうえで買収しその代金を支払つたものであり、また原告と前記中川浅二が通謀して本件四資産を除外しながら被告に不当に高価で灘タクシーを買収させたことを認めるに足りる証拠(被告は訴えの提起に際しこの点の調査を行つた形跡もみられない)もみられないので、いずれにしても灘タクシーの買収交渉において右四資産を除外することにより、原告は被告に被告主張の背任行為に及んで損害を与えたものとはいえない。従つて、被告は故意又は少くとも過失により勝訴の見込みのない右訴訟を提起して被告に弁護士を選任しての応訴を余儀なくさせ不必要な弁護士費用を負担させたものであり、これが所謂不当訴訟として不法行為を構成するものといわざるをえない(なお、被告主張の一三七七万円は右不当訴訟から除外されている(被告は原告らを相手に別訴による不当利得返還請求をしている)ので、被告が原告に対しその損害賠償請求権を有するか否かは右不当訴訟の成否とは全く別問題である)。

しかし、一方、被告が右訴訟を提起するに至つた事情について検討するに、被告は原告を全面的に信頼して灘タクシーの買収交渉を一任したのに、原告には前記のような背信性を疑いうる一連の言動があつたうえに、原告は灘タクシーの買収という大規模取引において通常作成される売買契約書等取引内容を明確にする文書の作成を怠たつていたし、被告から説明を求められても納得のいく説明もできずに被告の疑念を募らせたうえ、原告は被告に無断で仮眠室を造つたりタクシー二四台の買い換えをしたこともあり、さらに原告は灘タクシーを解雇された後には中川浅二傘下の企業に就職するなど被告の疑念を裏付けるが如き行動に出たために、被告は原告を信用しなくなつたのみならず、原告には被告主張の背任行為がありそのために被告は前記損害を蒙つたと信ずるに至つて前記訴訟を提起したものと解される。そして被告がそのように誤信するに至つたのも、被告の立場において原告の前記一連の言動を疑惑の目で見ればある程度はやむをえないところであるともいえる。

してみると、被告の前記不当訴訟の提起には原告の前記背任性を疑わしめる様な一連の言動がその一因となつていることは否定できず、従つて、原告が自ら被告の前記不当訴訟の提起に寄与した事情は損害の公平な分担という観点から原告の損害額の算定において当然に斟酌されるべきものといわざるをえない(被告は原告の過失により右訴訟を提起したもので被告には過失はないと主張しているが、被告に損害賠償責任が肯認された場合は原告の過失は当然に斟酌されるべきことを主張している趣旨と解される)。

そして、被告の右不当訴訟により原告は応訴のために弁護士の選任を余儀なくされたものであり、原告が支払つた弁護士費用は被告の右不当訴訟により原告の蒙つた損害と解すべきであるが、被告が同訴訟を提起するに至つた経緯には前記のような原告の背任性を疑わしめるような事情があつたことをも斟酌すると、原告が支払つたその主張の弁護士費用(原告が支払つた弁護士費用額は三〇〇万円を下らないと主張するのみであるが、本件訴訟の事案・訴額、訴訟追行の難易とその期間、口頭弁論回数、日本弁護士連合会手数料報酬基準等からみてもその主張の金額を下らない費用を要したことは容易に推認される)中、原告が被告に対し前記不当訴訟による損害として請求しうる金額は金一五〇万円が相当と解される。

2  被告の慰藉料について

(一)  被告の名誉毀損行為等について検討するに、〈証拠〉を総合すると次の事実が認定でき、同認定に反する〈証拠〉はにわかに措信できず、他に同認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 原告は被告の誘いで二〇年余りも勤務した日新信用金庫を退職して灘タクシーの専務取締役として就職したのに、被告は昭和五一年六月に原告には被告主張の背任行為があつて被告にその主張の損害を与えたとして原告の説明弁解を聞き入れることもなく原告を一方的に解雇した。しかし、その後の被告の提起した前記損害賠償請求訴訟において、原告には被告主張の背任行為はないとして被告の主張は排斥された。

(2) 被告は原告には被告主張の背任行為による五六九七万円の損害を蒙つたとして前記訴訟を提起し、また他にも口外したが、原告には被告主張の背任行為はないとして敗訴した。原告は同訴訟に勝訴したので同訴訟により侵害された名誉信用は一応は回復されたとはいえ、同訴訟の提起からその勝訴に至るまでの三年九か月余の間、原告は名誉信用の侵害による精神的苦痛を受けた(しかも、それが忍受の限度を越えたものであつた)ことは看過できない。

(3) 被告は昭和五二年春頃、灘タクシー従業員らに「飼犬に手を咬まれた」とか原告が灘タクシーの金員を横領した趣旨に解されるような発言をしたり、さらに同年頃稲泉実豊に対し「岡本(原告)に六〇〇〇万円もの金を取られたので訴えている」と述べ、被告の元信用金庫支店長としての名誉・信用を害した(必ずしも公然事実を摘示することまでも必要ではない)。

そして、右事実によると、原告が被告の右一連の言動により名誉信用を害されたことによる精神的苦痛は大きく、その慰藉料額は、原告にも前記背任性を疑わせるような一連の言動があり、それが被告の前記誤解と言動の一因となつた(しかし、被告が原告に背任行為があつたと信じたことがやむをえなかつたとまでは云えない)ことなどを考慮しても金一五〇万円を下るものとは解されない。

三以上の次第で、原告の被告に対する本訴請求は、被告に対し金三〇〇万円の支払いを求める限度で理由があるのでこれを認容することとし、その余は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を、仮執行宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。

(裁判官小林一好)

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